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中国の歴史「中国文明」:
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中国の歴史「中国文明」:
世界四大文明の一つ、黄河文明が芽生えたのが黄河流域。
こんなことは小学生でも知っていることだ。
そして、みなさん一度は黄河の映像なり写真をご覧になったことがおありになると思う。
そう、本当に「黄色い」のだ。
黄色いというより、濁っているといった方が日本人の感覚に合っているかもしれない。
これは、河に黄砂という粒子の細かい土が混じっているからである。(ちなみに黄砂はとても粒子が細かくて軽いので、日本にまで飛んでくることがある)
しかし、この「黄河」、歴史を辿ってみると単に「河」とよばれていたことが分かる。
「黄河」と「河」。河は河だが、なぜ呼び方が違うようになったのか?それも呼び方が徐々に変わったわけではなく、ある時期を堺に変わっているのである。
つまり、黄河はもともと「黄色」くなかったということなのだ。
そう、黄河は澄んだ大河だったのだ。
それが、いつのころか「黄色」くなってしまい、人々は「黄色い河」ということで「黄河」とよぶようになったらしい。
中国の歴史を辿ると、まず現在確認されている最古の王朝は殷である。その殷が滅ぼされ周になる。これが紀元前1023年のことだ。
周は成立後間もなく、殷墟からから遠く西に離れた現在の西安に都を定めた。後に東に移動して洛陽に遷都するまでの間を西周と呼ぶ。
周は広大な領地を統治するために、一族や功績のある臣下を諸候として地方を治めさせる封建体制を確立することになるのだが、王と諸候とのつながりの証しとして配られたのが青銅器である。
しかしそのうち王室の権力は衰え、代わって地方の諸候が力を増してくる。そんな中、周は西北の辺境から異民族、犬戎(ケンジュウ)の侵入を受け、遷都を余儀なくされる。
こうして紀元前771年に洛陽に移った後の王朝が東周である。
この時代、東周のほか、秦、燕、宋、楚が乱立した紀元前5世紀までを春秋時代、そして紀元前403年に晋が趙、韓、魏の三国に分離して、いわゆる「戦国七雄」が争うようになる。その後の時代を戦国時代と呼ぶわけだ。
そしてその戦乱を統一して初の統一国家になったのが秦である。統一を成し遂げた秦王、政は自らを始皇帝と呼んだ。これはみなさんご存知のことである。
しかし、秦はもともと、僻地の諸候にすぎなかったのである。その領地は現在の四川省の上に位置する陝西省(センサイショウ)の西端である。その秦がなぜ、他の六つの列強を押さえて戦国時代に勝ち残れたのか?
そのもっとも大きな理由とされているのは、独自の中央集権的な富国強兵政策だった。その一端として大規模な治水、灌漑工事がある。
もちろん、春秋戦国時代にはほかの列強国も感慨に着手してはいたのだが、秦が築いた西安北の「鄭国渠(テイコクキョ)」と呼ばれる運河の規模は並外れていたといえるだろう。
この鄭国渠の完成とほぼ同じ頃、王に即位したのが始皇帝だった。中国統一はそれから35年後のことである。
従来は食料に乏しいといわれた秦が、感慨によって肥沃な農地を確保したのはいうまでもない。こうして国力を高めたことが、乱世の覇権へとつながっていったとみることはできるだろう。
しかし、ここで一つの疑問が生じる。
世界四大文明といわれるものには、大規模な灌漑は欠かせないものだった。ならば、新以前の王朝であっても灌漑工事をしていると予測できる。
ところが、殷では灌漑工事を行った形跡が全く見られないのだ。
現在の黄河中流域、つまり仰韶文化から秦の都、洛陽まで中国の舞台となった地域は、一面を黄土で覆われた荒野である。森林地帯はわずかにぽつりぽつりと点在する程度で、通常は緑の影を見ることすらまれなのである。このような土地で灌漑を行わなかった殷が、なぜ豊かに栄えることができたのだろうか?
その理由は簡単で、単に灌漑の必要がなかったからなのだ。というのも古代の黄河中流域は、豊かな緑に覆われていたのである。
どのようにしてこういった事実を予測できるかというと、例えば殷墟でみつかったアジアゾウの骨である。甲骨文にも、殷の王が家臣らとアジアゾウの狩猟を楽しんだ記録が見つかっているのだが、ここから考えられることは、大量の植物を食料とするアジアゾウが黄河中流域に原生していたしていたということである。つまり、かつてはそこに広大な森林があったことの何よりの証拠なのである。
ところが、やがて森林は次第に面積を狭めていった。その理由は、文明を手にした人類が急速に木材を消費し始めたからである。
青銅器を作るにも、その鋳造には燃料として多量の薪が必要になるのは想像にかたくない。さらに春秋時代から戦国時代にかけて発達した鉄器が、森林伐採に拍車をかけた。そして鉄器により大規模な開墾が可能になり、木材の利用もいっそう進んだのである。
そして忘れてならないのが始皇帝の「兵馬俑」である。兵馬俑はそうした木材の大量消費を物語る資料でもある。
兵馬俑は一般人も見学することが可能なので、中国旅行をしたことのある方は見たことがあるかもしれない。
見れば分かることだが、地底に埋もれていた焼き物の大軍団は、推定で8000体以上である。それも実物の人間を模して実物大の人形をこれだけ焼き上げたわけだから、それこそ途方もない量の木材が燃料として使われたはずだ。また、発見された兵馬俑坑は、木造の巨大な屋根で覆われていたということも分かっている。この兵馬俑と兵馬俑坑を作るために要した木材は、おそらく山一つ分でも足りなかったに違いない。
古代から始まった森林の減少は、我々の想像を絶する規模で進んだようだ。
そのことを如実に伝えているのが他ならぬ「黄河」という呼び名である。
そもそも「黄河」はただの「河」と呼ばれていたという。それが黄河になったのは、秦の後およそ400年余りに渡って続いた漢の時代のこととされている。
森林伐採によってなぜ「河」が「黄河」になってしまったかの簡単な理由を説明すると、これは現代においても問題とされていることと酷似している。
山から森林が消えると、森林が本来降雨を蓄えるはずだったその水が蓄えられなくなり、そのまま土砂となって河に流れ込む。つまり表土の流出が起こるわけだ。
そして、黄河の呼び名が歴史に現われる時代は、黄河中流域の森林減少が深刻化し始めた時期と重なっている。つまり、伐採によって流れ込んだ黄土が「河」を黄色く染め、いつしか人々は「黄河」と呼ぶようになったと考えられる。
豊かな森林資源をもとにして発達した中国文明であるが、森林を失った黄河流域はやがて旱魃や洪水に悩まされることになる。
この皮肉な図式は、決して古代だけのものではない。
中国の歴史「中国文明」:秦王朝