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中国の歴史「中国文明」:
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中国の歴史「中国文明」:
新石器時代を終えた中国で、最初に開いた王朝が殷だ。これは、現在のところ中国最古の王朝ということになっている。殷が成立したのは、紀元前1600年頃とされている。それから約500年後に殷の一諸候にすぎなかった周によって滅ぼされている。
ただし、中国最古の王朝といっても、それは「現在確認されている」最古の王朝という意味である。
では、殷以前に王朝は存在したのか?という疑問が生じる。これを検証するためには、中国文明がどのようにして誕生したか、そこまでさかのぼらねばならない。
現在のところ、中国大陸に人類が現われたのは、今からおよそ70万年前のこととされている。。当時の人々は簡単な加工をした石を使い、採集狩猟生活を送っていた。
それから1万年前頃までは、さして進歩らしき進歩は見られなかった。せいぜい石器に多少の改良が見られたくらいだ。この長い期間がいわゆる旧石器時代ということになる。
やがて、紀元前6000年頃になると、人々は集落に定住して、家畜を飼ったり、穀物を栽培したりするようになる。また、石器も美しく磨かれるなどの加工が進み、土器も作られ始めた。これが新石器時代である。
中国でその舞台となったのは、大陸を横切って流れる2本の大河、黄河と長江だった。文明は大きな川の近くに栄えるというのは、中国とて例外ではない。
黄河流域で発達したのは、紀元前5000年から紀元前2500年頃の仰韶文化である。キビ、アワなどを栽培し、美しい土器を数多く作り出した。
一方長江流域で栄えたのは紀元前3000年から紀元前2000年頃の良渚文化である。こちらは稲作を行っており、石を美しく加工した玉器で知られている。
このうち、殷の歴史に連なるのは、黄河流域で繁栄した仰韶文化である。仰韶文化はやがて、竜山文化とよばれる、より進んだ文化へと連なって行く系譜だ。
竜山文化が興ったのは、紀元前2500年から紀元前1700年頃である。繊細な陶器や、城壁を巡らせた集落の遺跡など、新石器文化に開花した文明の兆しがうかがえる。
仰韶文化、竜山文化と受け継がれた発展が、ついに殷の成立をもたらす。これが、現在のところ史実として確認されている中国文明の系譜である。
ただし、この説明にもミッシング・リンクが存在しないわけではない。青銅器文化が花開いた殷と竜山文化の間の期間が空白なのだ。つまり、初期青銅器文化にあたる期間の歴史がまるごと抜け落ちている。
そうすると、史記に記されている殷の前の王朝である夏の存在を考えてしまう。
史記はいわずと知れた前漢の歴史家司馬遷が紀元前91年頃に完成させた中国最初の通史であるが、中身は伝説的人物の黄帝から前漢の武帝(紀元前158年からき紀元前87年)までの歴史を記した全131巻の膨大な文献資料である。
基本的に、この史記をさかのぼる形で殷王朝の存在の証明までは行き着いたのである。
史記の第1巻は「五帝本紀」となっており、黄帝からその後子孫である4人の王が順に王朝を治めたことが書いてある。この五帝のあとが夏、殷、周という三王朝である。
なぜ、史記が「五帝本紀」から始まっているかというと、それ以前歴史としては、三皇時代といって、伏羲などおよそ人間とは思えない(上半身が人間で下半身が蛇)神話的存在の人物が出てくる時代があることにはあるのだが、司馬遷は、さすがに三皇時代は信じられないとしてこれを除外して「五帝時代」を史記の最初においているわけである。
ただし、司馬遷は黄帝についても「黄帝に関する文章は美しく整っていないし、理にも適っていない。地位のある人や教養のある人は黄帝に言及しようとしない」(『史記』五帝本紀)と書いていることからして、司馬遷の時代にはすでに黄帝は伝説になってしまったようである。
『史記』「本紀」によると、夏を起こした始祖は禹である。
この禹や夏に関して記した古文献は意外と多く、禹にまつわる伝承を現代まで語り継いでいる少数民族もいる。中国大陸中央部で長江から北上する支流、岷江(ビンコウ)の上流域で暮らす「羌族」がそれである。
伝承の中で禹は洪水を司る神のような存在として現われている。時には「人面魚身」といったふうに表現されることもある。そうすると、どうも実際の人物のようではない気もするが、このような信仰の原型ははるか古代に作られたものらしい。
ここで、注目すべきは、仰韶文化を代表する遺跡のひとつである半坡遺跡では、やはり人面魚身の神を描いた彩色陶器が出土していることだろう。
羌族の伝承は、禹に対する古代人の信仰をそのまま現代に受け継いでいるものらしい。実際、羌族の歴史は古く、殷の時代から既に資料に記録が見られる。そのころの甲骨文字には、羌族が殷と対立して執拗な戦いを繰り返したことが記されているのだ。
また、殷の遺跡からは、殷によって殺された羌族の遺体と見られる1万4000体もの人骨が出土している。(ここのところ、マンガ封神演義を読んだことのあるかたはそのようなエピソードが入っていたのを覚えておられると思う)
現在の羌族が暮らす岷江上流域というのは、殷が栄えた黄河中流域からするとはるか彼方なのだが、羌族が数千年の歴史の間に、黄河中流域から現在の地域に移って行ったことは分かっている。
古代黄河中流域で生まれた禹への信仰は羌族によって岷江上流域に運ばれ、そこで現在まで生き続けている。
殷へと続く仰韶文化が生み出した人面魚身の禹と、史記などに描かれる治水を成し遂げた王としての禹。それは神話上のもののようでもあり、実在の人物のようでもある。
中国の歴史「中国文明」:夏王朝